エミリーの絵
超遅ればせながら、「エミリー・ウングワレー展」にいってきました。
色彩も構成も作為的なところがないのにバランスがよく、それでいて宇宙的な壮大な作品ばかりでした。
見終わった後は、乾いた心に清水がしみこむようなおだやかな気持ちになりました。権威とか自意識とかそういう余計なものを感じない、爽快な展覧会でした。暑い中だったけど、いってよかった。
超遅ればせながら、「エミリー・ウングワレー展」にいってきました。
色彩も構成も作為的なところがないのにバランスがよく、それでいて宇宙的な壮大な作品ばかりでした。
見終わった後は、乾いた心に清水がしみこむようなおだやかな気持ちになりました。権威とか自意識とかそういう余計なものを感じない、爽快な展覧会でした。暑い中だったけど、いってよかった。
今朝は仕事に遅れそうになって、皿も洗わずに出かけたんですが、帰宅してからドライフードの袋を台所に出しっぱなしにしていたことに気付きました。
猫の餌のはいった透明のプラスティックの袋の口をダブルクリップで留めてるだけのものですが、無事でした。小鬼は手を付けてなかったのです。
……え?
見えるのに。簡単に食い破ることも出来る袋なのに。
うーん。
暑さのせいでぼけたんだろうか?
しかし、暑さにも食欲は減退しなかったらしく、私が帰ったとたん「ごはーんごはーん」と脚にすりすりとまとわりついてきてたのでした。いつものごとく一瞬で食べきってたし。
やっぱり猫って謎が多い。
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おかんの撮った、小鬼の写真を別ブログにしました。
こちら同様、ロボ除け無しの一般ブログです。
小鬼の生まれたばかりの写真から、最近の写真まで、おかんカメラマンが激写☆しました。
その名も「おかんの猫写真館」←まんま、やん。
こちらも適当に更新していきますので、どうぞよろしく〜。
再見、なんてほどのものでもなく、BSつけていたらはじまったので、つい見てしまった。
詰めが甘いとか色々と欠点はあるのだろうけれど、イギリスでは愛されてるんだろうな、と思った。おそらくイギリス人が見て「ああ、こうだよな」という部分がぎっしり詰まっていそう。
ジェイミー・ベルの「労働者階級の小僧」っぷりが本当にかわいい。
以前、誰かブロガーが、劇中のロイヤル・バレエ学校の入学テストのシーンについて「ビリーの踊りの技量そのものでなくて、彼の言葉が決め手になって合格が決まったのが解せない」と書いていたのだけれど、私はそうは思わなかったので、その件をペンディングにしておいた。で、今回、モンダイのそのシーンをみてみたら、やっぱり、その「言葉が決め手」というのは気にならなかった。
というか、むしろ本質的だと思った。
件のシーンは、入学テストの中での面接シーン。
ビリーと父はロイヤル・バレエで学ぶということへの覚悟や、バレエに対する理解、情熱について質問を受ける。でも肝心のビリーはなんだかはっきりしない。(その前段の実技のシーンもぱっとしない)
とうとう面接も終わり立ち去ろうという時に、一人の面接官が「あなたは踊ってる時、どんな気持ちになるの?」とたずねる。
それに対するビリーの答えは、言語的にも表情もとても雄弁なものとは言えない。もそもそと蚊の鳴くような声で答える。しかし、話しているうちにビリーが確信を持って言う言葉が「電気のように」という言葉。
この一言に面接官達が「これは」という表情をする。
鳥のように、電気のように、そして、自分がなくなる瞬間。
ビリーが拙い言葉でいった台詞は、舞台上のすぐれた表現者に必須の感覚をあらわしていると思う。
ダンサーにしても役者にしても、舞台に立つものは、異界からの何かをその身体を通してわたしたちに見せる。
それは演じる本人たちの意図を越えた「なにものか」が立ち現れる瞬間で、それは霊媒の忘我の状態にもたとえられるものだ。
頭を働かせ、体を動かし、100%の努力をしても、なお「それ」が再度やってくるかどうかはわからない。ただ、「それ」がないと大きな感動は生み出せないものなのだろう。
そして、ビリーが既に「なにものか」を感じる体験をしているというところに、面接官(ということは後にビリーの教師になる人々)は可能性を感じたのだろうな、と思った。
技巧がすぐれている、振り付けが素晴らしい、というだけでなくて、その瞬間でなければ感じられないものがあるのが、舞台のいいところ。
で、AMP版の「スワン・レイク」なんだけれど、わたしはアダム・クーパーが白鳥をやってる舞台をみれてないんだよね、結局。
ほかのキャストも十分すぐれていたんだけれど、でも、やっぱり「あて書き」みたいなものはそのひとでみないとね。
(それはやっぱり、「ボレロ」はジョルジュ・ドンのものだった、みたいなものでしょうがない)
最後に25歳のビリー役で出てくるアダム・クーパー、かっこよかったなあ!
あと、「男はフットボールかボクシングだ」と父ちゃんが言うシーンとかみて、どうしても否応なしに豆こを思い出してしまった。豆こはどっちもやったけどモノにならなかったんだよね。そんで「そんなのはカマのやる仕事だ」って反対されていた役者になっちゃった。
イギリスの新聞、雑誌での豆この紹介文に「『ビリー・エリオット(リトル・ダンサーの原題)』みたいに」って書かれるのは、そのあたりの相似性かなあ。ま、豆こは労働者階級だけどお金持ちの子だったんだけどね。
私はそれにプラスして「でも散々いわれて入った業界で、豆こってホンモノのゲイにはもてなかったんだろうなあ」っていうコンセンサスがあるような気がするんですが。
「ああ、きっと、こいつのキャラじゃ鈍くて無理」みたいな。
考えすぎですか? でもそう考えると可愛くてしょうがないんですが(笑)
さらにどうでもいいけど、ストでの警官隊との衝突のシーンで、ビリーの兄が労働者住宅街を逃げるところ、クラッシュの「ロンドン・コーリング」がつかわれていたけど、パンクって労働者の音楽なのねえ。
「ブラボー・ツー・ゼロ」でも冒頭、空母からの戦闘機の離発着シーン(ニュース映像)に合わせて、同じ曲が使われていた。それって「労働者の労働の場としての戦場」(イギリスの伝統産業?)ってことだったのかね。
テレビで見ても、やっぱりなかなか好きな映画です。
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