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BENT

 7月に世田谷トラムシアターで『BENT』をみました。
 翻訳の演劇は、ホンをそのまま横から縦にしただけじゃ表現できない色々(黒人差別とかそういう要素)があったり、逆に日本に置き換えたのがこじつけっぽく見えたり、どうも半信半疑なところがあったのよね。(※個人の感想です)
 それで、マックス:佐々木蔵之介、ホルスト:北村有起哉という鉄板なキャストでありながら、ビクビクしてたのですが、先に見た人達が「しんどい」を連発するようすに、素直に期待しながら劇場に向かいました。
(ネタバレあるので畳みます)

 『BENT』自体は'97年制作の映画で見てた(DVDだけど)ので筋は知っていたけど、クライブ・オーウェンと蔵さんを単純に比較できないでしょう……。どうなるかなと待っていると幕があがり……最後には「言葉ってすげえ」と打ちのめされて震えていました。

 お話は「放蕩者の日常」からはじまり、やがて「強力で暴力的な権力に追われる日々」になり、そして、「何かと引き替えにようやく生き延びる」しんどい話になっていきました。
 逃亡生活のなかで、ようやく自分の感情に向きあいかけたところで逮捕され、移送列車の中でルディを裏切り、色々なものと引き替えになんとか生き延びて、生き延びることが目的になっていった頃に、石運びという奇妙な作業をすることになるマックス。
 そこでホルストこと有起哉さんが本格的に登場するんですが、有起哉さんはもってますよね。移送列車の中でちらっと出てきただけで、ぐっと、「この人が何かを起こすな」と一言一言に惹きつけられましたもの。
 そして、収容所の石運び場でピンクの三角(同性愛者)の印をつけたホルストと、偽って黄色い星(ユダヤ人)の印をつけているマックスが出会い、奇妙な対話が始まるわけですが……とにかく、お互いを見ることも、石運び以外の動きをすることも禁じられた中の対話なので、「言葉だけ」「声だけ」がすべてなんです。その言葉と声も、もちろん抑制されている。
 その中で互いを知り、思いを深め、関係を深めていく展開は圧倒されます。
 いわゆる「熱演」や「口からツバを飛ばして台詞をがなる」式の「表現」はできない場所で、人間の深い部分に触れるような対話が繰り広げられ、胸がつぶれるような思いになりました。

 ラスト、蔵さんが倒れた有起哉さんの体を抱き起こし、抱きしめるくだり……死体であるのを続行する有起哉さん、大変そうだった。(いや、そこじゃないだろ)
 非常にバランスのとれたアンサンブルのおかげで、素晴らしいお芝居になってました。役者さんの力量、美術、演出、そして脚本。
 妙な「工夫」や「自己主張」をしないで真っ向からの表現をやりきったのが、とてもわたくしの好みでありました。全編、緊張感の劇でしたが。

 友人Nは「絶望」についての芝居だね、と言っていたのだけど、わたしは、たぶん、同じことなのかもしれないけど「何が人を人たらしめるのか」の芝居だと感じました。
 石運び場の対話が強烈なので、そこに至るマックスの過去がいるのかと思うと、いるんだよなと。マックスはピンクの三角(同性愛者の烙印)を拒否し、何年もつきあった青年・ルディへの愛情を否定し、彼を裏切り、自分自身や自分の愛する様々なものを否定してきた。それは、身を守る為だったり、精神的に傷つかないためだったりする。
 しかし、最後の最後、マックスはホルスト(愛情の対象であるだけでなく、マックス自身について見つめることを教えてくれた相手)を奪われて、自分を否定することをやめた。それは命を捨てることでもあったが、自分でないものとして生きることに、人は耐えられないのではないか。
 そんなわけで「何が人を人たらしめるのか」というものを問われたように、わたしは感じた。
 人が単なる生き物でない何かなのだとしたら、それは「自己」(自我っていうのかしらん)
があるのがその根拠ではないか。自己を捨てれば、それは人であることを捨てることになる。
 だから、最後にマックスはピンクの三角をつけ、ホルストの囚人服を着て、死を選んだ。(「自死」が究極の自己決定であることから、自殺者の出た棟の収容者たちは連座制で罰せられたという伏線があった)

 それにしても、見終わってからパンフレットを読み、この芝居が最初は朗読劇から始まったことを知り、「やっぱり言葉か!」と痺れました。
 もちろん、装置があり、演者があり、の舞台なんですが、「言葉」の要素がとても大きい。必ずしもストレートに台詞になっているわけではなく、ときには逆説があり、ときには嘘があり、ときには鋭い真実があって、マックスの心、観客の心を根底から動かしています。
 陳腐なようですが、言葉の可能性をまだまだ自分はわかってないなと思いました。
 日本語で演じられたので、ここまで色々と感じられたので、英語で見たときはそこまでで理解できなかったなと思いました。
 初演時にイアン・マッケランがマックス役だったのは、みなさんご存じの通りですが、フィルムとか録音とか残ってないかなあ。イアンの声で読む台詞はどんなだっただろう、と思わずにはいられない。
 ……と、矛盾するようですが、思うわけです。
 日本語で読んでもサッパリわからなかった『ゴドーを待ちながら』が、サー・イアンとパト様の芝居を見たときにはスッと入ってきたので。舞台の力はすごいんだな。

 それはそれとして先週、『帰ってきたヒトラー』を見たので、「言葉」の力の恐ろしい面を思い起こさせられました。
 「ドイツをドイツ人のものに」って言ってたけど、それって安倍晋三の「日本をとりもどす」とまんま一緒だよね。
 長らく丁寧な平和教育をしていたドイツにおいても、ナチズムの長い夜の記憶は薄らぎつつあり、「帰ってきたヒトラー」に人々が悪気もなく手を振り、「外国人を追い出せ」という話にうなずいたりするわけです。(もちろん、出てくるな!と怒り狂っていた人もいた)一部ドキュメンタリーで撮っていたので、その生の反応が恐ろしくて、「悪気なく賛成」することそのものがファシズムだよ、と、恐ろしい事態に震えました。
 映画の中でヒトラーが主張する、断定的な言葉は力強く(だって、一面的だから)、人々の賛同を集めます。役者さんも上手で、絶叫調のオリジナルとは違って、いい声で主張を述べるので、チャーミングにすら感じます。本当に、ヒトラーが蘇ったら、現代に合わせた戦略をとりそうだと思わせます。
 『わが闘争』で、本人が書いているのですが「嘘でも言い続ければ、大衆は信じるようになる」進んで彼らは騙されているし、支持したいことをしているのだ、と。そう種明かしをされてもなお、支持したという過去は実は「過去」ではないんですね。
 『帰ってきたヒトラー』は非常に良く出来ていて、ぎりぎりまでコメディとしてきわどいところを攻め続け、最後のオチでゾッとさせ、考えさせるものになっています。
 で、「言葉」というものについて、(映画では「映像」「ネット」といったメディア戦略を当然やっていたけれども)改めて考えさせられたのでした。ちょっとこじつけか。

 自分は文章を書くので、言葉の力を引き出して、言葉だけで人を動かしたいと思っています。その方向性について考えるのも、もちろん、言葉なんですよね。
 

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