「誰も寝てはならぬ」

 サライネス(以前はペンネーム、サライイネス、っていうてはったけど変わった)の「誰も寝てはならぬ(7)」が届いたので、読む。
 もともとこの人の「大阪豆ゴハン」(講談社漫画文庫で全6巻)が大好きだったので、場所を東京は赤坂に移しただけで似たような感じになるのかしら? ……と思ったのですが、あくまでも別もので、かつ面白くなりました。

 オオサカのオモロイ人図鑑だった「豆ゴハン」に比べ、ホれたハれたの話をメインにして、それなりに困ったチャンは出てきてもさらっと下品にならずにまとめたのが「誰寝」という感じ。もちろん、猫の話やオモロイ人話も満載で、相変わらず情報過多(笑)
 そういえば友達が言っていた「台詞が手書きから写植になった分、文字数が多くはいるようになって、読むと眼が疲れる!」って。

 おもわず真面目に読んでなかった前の巻(1〜6)を一気再読。
(こういうことをするから眼が疲れるわけだ)
 途中ゲラゲラ声を出して笑ったり、それを隣にいる猫にうるさそうに尻尾を動かされたりすること数回。
 この人の描く猫の行動描写は、いかにもありそうなんですが、印象に残ったのをひとつあげると、「誰寝」の主要人物が勤めるオフィスの見習社員(マキオちゃんという)が、先輩の猫に威嚇されっぱなしで、ちっともなついてもらえなくて、「俺じゃあダメかなー」とか猫相手に泣き言をいっていたら棚の上にいる猫にポスッと前脚で頭を押さえられた、というもの。
 なんか猫に「ま、がんばれ」と、見下されてるかんじ……。実際、猫ってこういう動きをするんだ。その状況次第で解釈は変わるんだけど、猫に上から見下ろされるのは感じ悪い(笑)
 あと、ユンボ(というか工事用重機全般)好きで、ユンボで遊ぶために田舎に友達と土地買った人の話とか「好きで好きでたまらなくて暴走する人たち」の日常が楽しい。
 やっぱりやりたいことやってナンボ、笑いもとれるんや、と思ったことでした。サラ節(節ちゅーのは似合わんか)、サラ・タッチ健在♪
 「豆ゴハン」からは「よう遭うオッサン」が引き続き(?)キャラとして登場してます。なんせ「よう遭うオッサン」なので、東京にいてもおかしくないのだ(笑)

 

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湿り気

 先日、雨の中国山地をバスで通過しつつようやく「ダークタワー」(第1巻)を読み始めました。
 荒れ果てた大地を微かな痕跡を残す「彼」を追って果てしない旅を続ける主人公。
 渋い。

 ……で、読書の合間に雨の降る河辺をながめたりしているうちに、日本ぽいものも読みたくなってきました。家に帰って一行も読んでいなかった「富士に立つ影」(1巻)を引っ張り出す。
 ……いや、だがしかし、読み始めたらノンストップという噂のキングと、第3巻まで主人公が出てこないという白井喬二では同時には読み進められるのだろうか?
 乾燥と湿潤気候、ものすごいギャップ。ある種の実験。

 これからそれぞれの本について、雄叫びみたいな一言感想をメモするかも。

 今のところ暗い塔の方がいいかんじに進んでるので、こっちが落ち着いたら富士を読もう。
 先日、思いつきで(いまさら)ドストエフスキーをどっさり買い込んでしまったし(だって、「悪霊」とか萌えるっていうんだもーん<バカ)、ああ、積ん読が増えていく……。

 ところで、今朝、友人の日記を見て思い出してタニス・リーの本を数冊密林で注文。
 おお、ヴァーチャル・ヴェニスのシリーズは面白そう。かっこよい。
 そして奇想コレクションの「悪魔の薔薇」も微妙だけど、ルルル文庫のこのあたりの装丁にびっくり。
 ルルルだからなおさらなんだろうけども、「耽美」の「た」の字もないっちゅーか。以前はリーといえば「耽美」の代名詞だったのだがなあ。今じゃ耽美で本買うひとはまれだろう。
 このご時世、本買う人がいるだけ有り難いってことで。そういうイマドキのお客には本を読むことに関するトキメキとか憧れはあんまりなくて、たとえばテーマパークに入場する感覚なんだろうな。お客様は神様です。(憧れが行きすぎると「今日の早川さん」でパロディしてるような、ちょっと鼻持ちならない、でもかわいい読書人になる?)
 あと翻訳が馴染んできた浅羽莢子さんや辻井朱美さんではないのだけど、どういうのでしょうねえ。楽しみなようなこわいような。
 まあ、ルルルでうっかり入って、タニス・リー世界にハマってくれればそれでよし。うひひ。明治は遠くなりにけり(違)。

 ……どのみち、私みたいな本をほとんど読まない人間の言うこっちゃないですね(笑)

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広岡達三の短編小説

 いしいひさいちの単行本「ホン!」を読みました。

 いしいワールドの作家たちの4コマと、広岡さんのお手伝いさんによる書評漫画はいつもどおり楽しい。作家ってのも大変そうです。

 なかでも素晴らしかったのは広岡センセイの短編小説「広岡達三コレクション」が4編も載っていたことです。よくつくってありました。
 なんか売れない純文学ふうの描写、言葉遣い満載で、すごーく「ぽい」感じでした。
 連作短編で同じ世界を舞台にしている話です。一応一編一編は完結してますが、内容的にはないんですよ。その「思わせぶり」が、ほんとうに「ぽい」。
 ふふふ。なんか得した気分。
 広岡達三ファンの人は必読。

 ……あ、結局、冬の原稿のメモは少し進んだけど、まだ書けない。がくし。

 あと、某さん激萌えの「近所にお買い物豆パパラチ写真」ようやく見ました。服が酷いのもアレだけど、安全靴にしか見えないスニーカーとかどうよ。そして手に提げたビニール袋の中身! 予想通りスポーツ新聞、ロング缶のビールひとうち、あと、手には煙草。完膚無きまでのオッサン。さすが期待を裏切らない男。サイコウ。
 でも、これだけ酷い格好してても素体がいいとかっこいいのよ。身のこなしとかも違うのでしょう。ああ、格好いいぜ畜生。おされ写真もいいけど、こういうのもいいんだよな、ち。
 パパラッチはいやな連中だと思うけど……くそー、時々恩恵にあずかってしまう身としてはなあ。ううむ。
 あと、オッサンがジップアップが好きだ、というのは納得しました。わかった、何枚でも同じようなの着ておけ。

※ちなみに画像はこちらで見られますが、落ち着いてみると、今回、ジップアップが薄い色目ということもあり、毛玉もできてないし型も崩れてないし、ひょっとしたら割と上等なものかも知れないという気がしてきました。Oさんが「ポケットにいっぱい入れてそう」と論評されたカーゴパンツも、そんなに酷いものじゃないかも知れない。それからキャップをかぶってるのは髪の毛をとくのが面倒だったからかなと気づきました。ありそう。……そうか、普段着も全てええもん揃えておけば、身なり構わなくてもなんとかなるもんね。あとは、メイキングで練習着(?)の襟が伸びきったTシャツとか色が褪せたトレーナーとかそういうのを着てしまうのさえ防げれば……。
 いや、別におしゃれじゃなくてもいいんですよ。「あちゃー」と思わせなければ。うん。いや、だがしかし、英国男児たるもの着るものにかまけていてはいかんのか? あえて反オシャレなのか?

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やっぱりしりあがりさんて「マトモ」

「オヤジ国憲法でいこう!」(しりあがり寿+祖父江慎 理論社)

 読むぞ、という決意のもとに買ったわけでもない一冊だけに、ちょっとキいた本。

 結論から言うと、「やっぱり、しりあがり寿はマトモな人でソンケー」ということです。
 すごいよね、ここまでちゃんと常識人でいながら、どかんと「真夜中の弥次さん喜多さん」なわけだから。わたし的には「コイソモレ先生」も忘れられない名作ですが。

 ともあれ、「狂気」なんて信じてないマトモっぷりがすごい人です。

 言うまでもなく、根っからの常識人(の、つもり)のわたくしは、とても自分がつまらない人間かも、というのがコンプレックスだったのですが、実は「ちゃんと常識人」であることのほうが大変レアで格好いいということが、この本をよんだ結論です。

 そんでもって、「心は何時までも少年」だの言っておいて、次は「かわいいおばあちゃんになりたい」とか飛んでしまって、オヤジ(大人、ちゅか中年?)のしんどさを避ける傾向にある皆さんへ向けて、啓蒙というようなかんじでなく、あくまでもソフトに(もと広告宣伝部担当らしく)呼びかける本です。
 ハナっから「妖怪じみた中年女になりたい」(てか、既になりつつある)と公言してはばからないわたくしには、あまり必要のない本なんですが(笑)、まあ、どうしてしりあがりさんのことが好きなのかが自分で納得できました。
 一応、「ヤング向け」に書かれてるらしいので、もはやヤングでない私には、ますますアレですが面白いです。

 たとえば、「第2条 友達ハ大切ナモノニアラズ」の一節。

 「友達は、楽しく利用し合えばよい存在である」

 ま、あったりまえっちゃ当たり前だけど。はっきり言う大人は少ないよな。
 こっから随分長く引用します。
 私の感想よりはおもしろいから(おい)。

「大人は気づいているのだ。『友達って、言われてたほど大切なもんでもなかったな』ということを。(中略)ワガ子に『打ち明け話ができて、気持ちを楽にできる関係の友達』のひとりもいないとなると、オマエはいったいどうなるんだと、トーサンは心配。でも、無理やりつくれるものでもない。むずかしさ。」

「誰かずーっと一緒にいなくても、同じ事で楽しみたいひとがその場その場で集まって、貪欲に楽しみ、また三々五々、自分の行きたい方向へ解散してゆく」

「サボリは二人だと、うまくできるものであった。
 ひとがお互いを利用しあうとは——けっこう、じわじわとおかしくって、そんなに、悪いことばかりではないものである。
 そして、いつかはサヨナラする友達。それもステキだって思いませんか。」

 ……はい、ここまで引用ね。

 マトモな人はこういうことを言う。
 そんでもって、意外に「大人」でこの辺、わかってない人が多いんだろうな。
 なるほろ。それで揉めたりするわけだ。

 正気であること。素面であることは、とっても大切だと思います。
 もちろん、そういうのを拒絶する人だっているわけですが。
 モンダイなのは、自分がどっちなのかのわきまえがない人なんじゃないかと思う今日この頃です。


 ともかく、なんか「友達は、楽しく利用し合えばよい存在」ってところが今週のキーワード。
 これで一本SS書けちゃうような、そんなツボを押された。
 

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はっちゃん

 今日はまともっぽい日記。

 おすすめ猫写真集

 「はっちゃんち。」
 (八二 一 :著 、青心社)

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 我が家の駄猫によく似た猫のか~い~写真集があるよ、といただいたもの。







 たしかにうちのに色目はそっくり。
 白黒の配分だけでなく、ぽってりと「たれ猫」(*注:座るとお腹が前脚よりも前方にたれっとたれてるようなデブ猫を、かわいらしく表現した語)なところまで。
 しかし、この写真家さんちの猫は非常にすぐれたモデルで、実にひねくれたところのない表情を見せてくれるのでした。
 猫の写真を撮るのは難しいです。
 背景を片づけなくちゃいけない、ということだけでなく(笑)、猫がカメラを構える人に飛びかかってこないように囮になる人とか物が必要だったり、面白いポーズを撮った時にすぐとれるように常にカメラをスタンバっておいたりしなくてはならないようです。
 うちのにはコンパクトカメラの紐を5度も噛み切られているので、それだけでもげんなり(半笑)。
 紐に襲いかかってこないように、紐を外して、そのほか猫の注意を引きそうなものはカメラおよび自分からはずして撮らなければなりません。ちなみに私の携帯はカメラが低性能なのでブログにのせるのもおぼつかないシロモノです。やはりデジタルカメラを買うしかないんでしょうか。便利で簡単だからね。でも光学カメラも好きなんですが。ぶつぶつ……。
 
 猫が撮りたいポーズをする→カメラをケースから出す→スイッチをいれる
 ……ていうのでは、撮れません。
 猫がポーズをしたら、次の瞬間には撮ってるくらいでないと(無理)。
 そんなわけで、「うちの猫に似た猫だから」とか無意味なことを言ってひとにこの写真集をみせたりしてます。(本当に無意味)

 でも、この「はっちゃんち。」とシリーズの「はっちゃんて、」「はっちゃんだらけ」は、本当にかわいいです。
 猫がリラックスした表情が堪能できます。
 そして撮っているひととの楽しい生活もかんじられます。
 元は公園猫だったはっちゃんが、飼い猫になってなじんでいくさまが、手放しの猫バカよりは抑制したかんじで(でも猫バカ)写真に添えられたコメントでよくわかります。かわいいだけでなく、猫も一所懸命生きてるんだな、とじんとしたりもします。
 猫好きだけでなく、おすすめです。
 わたくしに似合わない、と、非難されるのを承知で「かわいい」と連呼してしまいましたが、本当にかわいいですよ。
 
 八二一というのは個人名じゃなくて、写真家ユニットの名前。
 はっちゃんと八二一さんについて詳しく知りたいかたは、こちらを参照。

 http://i821.com/

 「はっちゃん日記」ではっちゃんの動静が分かります。

 うちの猫(名はハンス)の動静をついでに書きますと、今日、わたくしが帰宅しましたら久しぶりに電話機の受話器を外して、保留音を鳴り響かせていました。
 電話イタズラすなー!
 
 てか、そのうち、勝手にテレビショッピングでラテラルサイトレーナー(→こんなの)
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とか注文されたらいやだな。





 あれ、また、アホ日記になってしまった。

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比類なきジーヴス

「比類なきジーヴス」(ウッドハウス著、国書刊行会)
「よしきた、ジーヴス」

 先日、某紙で「英国の人気執事ものの新訳出版」というのを目にとめて、思わずときめいてしまったので。
 まとめて密林でクリッククリック♪
 やっぱりときめくでしょう、執事好き属性としては(笑)
 
 お話は、バカ旦那な若旦那バーティと全知全能(嘘)の執事ジーヴスのコンビが、身近な事件(?)を解決していくコメディ。イギリスではホームズとワトソンくらい有名なコンビだとか。
 内容はびみょーなやりとりが、テンポ良く続いていってなんだかおかしい。非英国人のわたくしには、わかったうえで「ひひひ」と笑うわけにはいかないんですが、皮肉がきいてておもしろ、と思う。
 いつも若旦那をすまして出し抜いてしまうジーヴス、なんだかんだ言って最後はやっぱりジーヴスをあてにしちゃうバーティの「コンビ」ぶりが絶妙。坂田靖子の「マイルズ卿ものがたり」に出てくるちゃっかりものの従者みたいなかんじもあり。階級間のすれ違いっぷりが英国ということなんですかね。
 それにしてもガイコクの、昔のお笑いを翻訳するのは難しい。思わずいちいち解説したくなってしまうが、そうもいかない。…翻訳家のひと、ごくろうさまです。
 それからジーヴスはvalet(従者、従僕)であって、 butler(執事)じゃないらしいんですが、ポジション的に日本語の「従者、従僕」ではあらわせないものがある、というので「執事」で勇断したらしいすよ。そういえば、ウィムジー卿の従者バンターってのも超有能で一家に一人ほしいタイプでありました。彼もvaletなのだな。「超優秀な従者、または執事を雇う」のは男の浪漫? てゆうか、わたしにも浪漫です。求ム、してきな執事……。

 私の脳内では、若旦那は必要ないから脳みそを使わない、というタイプです。努力しなくてもオックスフォードで卒業するくらいのことは困らないし、就職しなくても食っていけるし。そのうえ執事は超優秀で、競馬の予想から適当なる献立、読むべき本、ふさわしい服のコーディネートまで万端心得てる。……頭使う必要ゼロじゃないですか? そのうえで自分は「バカだ」と平気で言ってられるわけですよ。(おっかない伯母様には本当におバカ扱いされてますが。あ、ジーヴスにもだ(笑))
 うらやましいぜ。
 かわいい俳優を配役したいなあ。細長っぽくて人がよさそうで、かんじのいいひと。もうちっとトウが立つまえなら、ベタ兄さんとかもいいかもしれないという説も。いいねえ♪
 ジーヴスはちょっとイヤミっぽい渋格好いいオヤジ俳優でプリーズ。
 
 まあ、これだけの人気シリーズなので、当然、テレビシリーズもつくられていて、BBCでJeeves and Wooster シリーズとして人気だったそう。(ジーヴズ役はStephen Fry、バーティ役はHugh Laurie ということでした)でもな……国書刊行会のほうの翻訳者さんは、BBCのドラマでやっていたJeeves and Woosterをみて、ガカーリだと書いておられたです。
ttp://valdefierro.com/jnw97b.jpg
……なるほど、これは萌えない。でも、そこでがっかりする感性には、ほのかな腐臭が感じられるのですが(笑)
 まあ、「もとからの」ウッドハウス・ファンな方々は、当然、このBBC版サイコーと思っておられるのでしょうが。しようがない。だって、イギリスの正常な人ならこのドラマには萌えじゃなくて笑いを求めるでしょうから。それがノーマルってことです。
………………orz


 

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グウィンおばちゃまのつぶやき

 「ゲド戦記外伝」は、読めば読むほど好きになる本で、前書きから後書きまであますことなく楽しめました。何度でも読みたい気がします。
 阿鼻叫喚の騒ぎとなったSciFi-TV制作のドラマ版「ゲド戦記」ですが、そういう不幸も、彼女は諦めてるのかな……と、ふと、この本の「まえがき」を読んで思ったことです。

<……私たちが古い物語を大切に思うのは、それが変わらないからである。アーサー王はいつもきっとアヴァロンで夢見ているし、ビルボは「往って還」ってくる。そこにはいつもなつかしい、いとしのホビット庄が待っている。そして、ドン・キホーテは風車をやりで突こうと何十年何百年と変わらず、やっきになっている、といった具合である。こうして人々はゆるがない確かなもの、遠い昔からある真実、変わることのない単純さを、ファンタジーの領域に求めるのである。
 すると多額の金がそこにつぎ込まれる。需要に供給が追いつくようになる。ファンタジーはひとつの商品となり、ひとつの産業となっていく。……(中略)……読む者を根底から揺るがすようなものの考え方はことごとく排除され、作品はひたすらかわいく、安全なものになっていく。>

 おばちゃまはもう、覚悟してはいるのです。でもね。

<想像力は、他のあらゆる生命体と同じように現在を生きる。それは本当の変化とともに生き、本当の変化に基づいて生き、本当の変化から養分をもらって生きるということである。……(中略)……金もうけの道具に使われようと、説教の道具に使われようと、きっと生き延びる。>
<私たちは今ではそれぞれに異なる十二通りものアーサー王の人物像を知っている。ビルボが生きている間でさえ、ホビット庄はあともどりできないほどに変化したし、ドン・キホーテは馬に乗ってアルゼンチンまで出かけ、ボルヘスにあった。だが、「変われば変わるほど同じものになる。」ということもある。>

 生きた一人の人、グウィンの中でアースシー世界は生き続けていたようです。だから、彼女は10年以上のブランクの後に外伝を書き、第5巻にあたる話を書いたんですね。そして、前書きはこんなふうにしめくくられています。

<物事は変化するものである。
 作者も魔法使いも必ずしも信用できる者たちではない。
 竜がなにものであるかなど、誰にも説明できない。>

ちなみに「外伝」訳者後書きでは、「ゲド戦記」を第1巻から翻訳している清水真砂子さんの衝撃の告白が……。ゲドの師匠筋である魔法使いOgionですが、そのまま英語読みすれば「オギオン」なのに「オジオン」としてしまったそうです。おーまいがっ! 表記を変えようかと思い悩んだそうですが、訂正の機会を逸したそうです。私の中でももう彼は「オジオン」なのでそのままにしておいてくだせえ(勝手)。翻訳って本当に難しいですね。

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帰還~”いま”ファンタジーが書かれる意味

 ファンタジーと言って、わたしのなかではずすことができないのはアーシュラ・K・ル・グウィンの「ゲド戦記」です。
 本編5巻+外伝1巻。魔法使いゲドと彼を巡る人々の、アースシーと呼ばれる世界での物語です。
 説明するまでもない名作だと思いますが、なかでも私がショックを受け、なおかつ読んでよかったと思ったのは4巻の「帰還~ゲド戦記最後の書~」です。(この先はネタバレ警報発令中!)

 この話は第3巻「さいはての島へ」の続きですが、それまでの3冊とはがらりと変わって、非常に過酷な話です。そして非常に地味な話です。
 世界の平和と秩序をとりもどすために死者の国におもむき、全ての力を使い果たしたゲド。かつての大賢人の輝きはもはやなく、心身共に衰えた初老の男となっていた。そのゲドと再会するのが、かつて地下の迷宮から救い出した巫女テナー。彼らはどのような人生を選び取っていくのか……。
 ここでは、もはや魔法は力を失い、ファンタジー世界が崩壊しています。
 ゲドとテナーがつきあたるのは、暴力、性…現実世界そのものの過酷な問題。強姦され生きたまま焼かれた少女テルー。彼女を守ろうとするテナーが「めす犬」と呼ばれ、這い蹲らされるシーンには圧倒されました。もう泣きそう……えーんえーん。人間のむきだしの悪意に対抗するのは「魔法」ではなく、かすかで頼りない「希望」だけ。
 あまりに重い展開に、読んだ後は打ちのめされましたが、同時に、絶望とともに常にある希望、ほんとうの強さとはなにかというグウィンのメッセージを強く感じて感動しました。
 世界を動かすもう一つの原理として「女の力」というものを描いてるところには正直コテコテかなあとか抵抗感もありつつも、いや、これくらいベタでないと伝えられないのかもしれない、と思い直しました。「ハンドバッグを振り回すおばさん」を自称するグウィンの、フェミニスティックな軸がゆるぎなく貫かれていて、逃げない喧嘩上等な姿勢に感服。これまたベタな感想ですが、そこにこそわざわざ20世紀も末になって、しかも女性の作者がファンタジーを書く意味もあるのだろう、と思いました。

 ゲド世界での「手のわざ」は、「まことの名」を理解し、世界の成り立ちを理解することによって得られる力です。
 現実の地球上に存在する「魔法」も、広い意味では同じ原理です。すなわち「まことの名(というか本質)を捕まれたら操られる」という観念が共有されているところで、魔力は発揮されるのです。だから昔の人は諱があったりしたわけです。…ゲドの魔法もその延長線上にあって、よりパワフルで超自然的だというところがファンタジーなわけです。
 アースシーに太古から伝わる「魔法」の知識を伝授するロークの学院が、女子禁制の世界であり、しかも妻帯することのない魔法使い達の世界は、非常にわかりやすく「知識=力」を支配するのが男という象徴でもあります。伝統的アカデミズムの世界というか(笑)。
 でも、実は学院の創設期には女子禁制ではなかったことが「外伝」の中では語られます。また、停滞していた学院の創造的破壊者となったトンボの物語も。(第5巻「アースシーの風」は「トンボ」を読んでからの方が味わい深いでしょう) あんまりこういう側面ばかり書いていると、未読の人が読みたくなくなってしまうかもしれないんですが、なーんにも考えないでファンタジーとして単に楽しみたいだけの読者に対しても、物語としての魅力に満ちたシリーズです。でも、「帰還」でファンタジーは現在に追いついたのだと思いました。追いついて、追い越していくのだろう、と。その辺りの強靱さがグウィンが「SFの女王」たるゆえんなんじゃないかと思うのです。
 J.R.R.トールキンは自らの「指輪物語」世界について、頑として現実世界を投影しているとは認めなかったそうです。オックスフォードにおいて「ベオウルフ」「エッダ」研究の大家であり、言語学のエキスパートであったトールキンが自らの知識を総動員し、魂の古層からそれらの物語を構築した、というならそれはそういうものかもしれません。でも、グウィンはもっと意識的に周到にアースシー世界を描いています。現代の世界の、彼女の読者たちに合わせて。
 たとえば主人公たちは所謂「白人」ではありません。皮膚には色があるようです。インドやパキスタンの人々のような相貌でしょうか。そしてテナーをはじめ多くの女性キャラクターが、重要な役割を負って登場します。「美しい」とか「高貴」以外の役割で。私が「指輪物語」を読む時に微かに感じる居心地の悪さ、「非白人」「非男性」の居場所のなさを、少なくともここでは感じずにすむわけです。些細なことかも知れませんが、私にとっては読んでいる物語に居場所がないのはつらいことです。
 正直、第5巻は「帰還」のかっ飛ばしぶりから見て後日談的な物足りなさのものでありました。むしろ、「外伝」でようやくアースシー世界が完結したような気がしました。それにつけても「帰還」のファンタジー逸脱ぶりは、逸脱してるからこそ、逆に、ファンタジーの名に相応しい気がするのでした。強いメッセージを持つ作品は、読む人を不快にさせることもあるのでしょう。

……なんかうまくまとまらないので、後日、またこの項書き直しますね。ペンディング。

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